「医者は生活の安定を約束していた。
しかし僕は画が描きたかったのだ。」
「睡眠は三日間で三時間。
こんなつらい仕事を四十年続けるなんて、
馬鹿じゃないとできないですよ。」
「一攫千金は偽りの成功。
真の人生の勝負は、
じっくり腰を落ち着かせてかかるべきだ。」
手塚治虫(出典:ウィキペディア)
1928年11月3日、大阪府、現在の豊中市に長男として生まれる。
少年時代、当時珍しかった手回し映写機が自宅にあり、チャップリンの喜劇映画やディズニーのアニメ映画を観る。また、母が買い与えた200冊もの漫画本があり、見様見真似で漫画を描くようになる。
1941年、中学校に入学した年に太平洋戦争が勃発。1945年には勤労奉仕中に大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。1945年に大阪帝国大学附属医学専門部に入学。
終戦後、子ども向け新聞に4コマ漫画の連載を開始。その後、漫画家の酒井七馬が手塚治虫の才能を見出し、長編ストーリー漫画『新寶島』を合作。1947年に出版されベストセラーとなった。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、教授から医者よりも漫画家になるように忠告され、母の後押しもあって専業漫画家になることを決心。大学は卒業し、医師免許を取得している。
1950年より『ジャングル大帝』の連載を開始。翌年には『鉄腕アトム』の前身となる『アトム大使』を連載するなど多数の雑誌で連載を始める。
1959年に結婚。1961年には自身のプロダクションに動画部を設立。日本初のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作を開始する。
1967年に『ジャングル大帝』がヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞する。
次第に古いタイプの漫画家とみなされ人気も低迷。虫プロダクションが倒産し、巨額の借金を背負う。
しかし1973年に連載開始された『ブラック・ジャック』やその後の『三つ目がとおる』がヒットし、本格的復活を遂げることになる。
100歳まで描き続けたいと言っていたが1988年に体調の悪化により入院し、胃癌と判明する。病院のベッドでも仕事を続け、最後まで仕事への執着心を無くさなかった。
1989年2月9日、手塚治虫は60年の生涯を閉じた。