「産業人としての私の信念は『自分の城は自分で守れ』ということ。これが石田退三の『一枚看板』である。ここでいう、城とは、むろん会社をさす。自分の会社のことは自分で責任を持とう、人にたよらず自力で守っていこう、ということなのだ。私も80の年を迎える。佐吉翁の大精神の伝令役として、あるいはトヨタの大番頭として、豊田城を守って40年。トヨタに関する限り、すでにやるだけはやった」
「わたしの信念は『ひとたび自分があずかった会社は、絶対に発展させなければならない』というものだ。その点が、オミコシ経営にアグラをかくサラリーマン経営者とは、本質的に異なるような気がする」
「商売道なぞというと、いかにも時代遅れのセンスにみられようが、たとえどんな時代にあっても、このことを忘れて経営は成り立たない。武士に武士道があるごとく、商人には商売の道がある。それは、世界に共通するビジネス・ルールなのである」
石田退三(出典:ウィキペディア)
滋賀県立第一中学卒。名古屋の服部商店で豊田佐吉と出会い、昭和2年に豊田紡織に入社。
重役となるが、自動車産業への本格参入に反対。昭16年に豊田自動織機の常務に就任。
昭和23年社長。昭和25年にはトヨタ自動社工業社長を兼任し、労使紛争を収束。
朝鮮特需に対応して合理化を推進し、自前の資本と技術による乗用車量産体制を確立。
昭和36年会長に、昭和46年相談役に就任。90歳で没。